第2回シニアメンバー懇親会

第2回シニアメンバー懇親会

2021年5月4日火曜日

「千夜千冊」寸読、備忘録

1162夜「グーグル・アマゾン化する社会」を寸読している。 「アイドマの法則」というのは広告全盛時代のよく知られた法則で、注目(Attention)・関心(Interest)・欲求(Desire)・記憶(Memory)・行動(Action)の頭文字AIDOMAをとったもので、この順番に戦略をつくれば勝てるという法則だった。「アイサスの法則」はこのうちの3番目と5番目を、検索(Search)と情報共有(Share)に変えて、AISASとした。  たったこれだけだが、とくに「検索」(自動検索システム)が入ったことが革命的に大きかった。ユーザーは適当なクエリー(検索窓に入力する質問)を入れさえすれば、あとは検索エンジンが動いて目的地に着けるだけでなく、そのほかさまざまなお釣りのサービスを受けられる。願ったり叶ったりだ。
欲求 ➤ 検索、 行動 ➤ 共有  組み立て・編集部品の蒐集 これで大志は生まれるか?
人間行動の原理(欲求理論):BehaveからActionへ?


 だいたい検索というものは、ピンポイントにほしいものに当たらないのでかなり苛々するのだが、その理由は、(1)延々大量の情報につきあわせられること、(2)ほしくもない情報(アダルトや芸能や売らんかな商品)ばかりが前に出てくること、この二つにあった。グーグルはこの二つの不愉快をかなり解消した。なんであれ、スマートがクールで、渋滞は嫌われる。
 そもそも検索エンジンでは、長らくSEO(Search Engine Optimization)が課題になっていた。一言でいえば検索エンジンの最適化、わかりやすくいえば特定のウェブサイトの検索サービスで検索結果を上位に表示する工夫のことである。これには、従来からTF(ターム・フリークエンシー)とIDF(インバーテッド・ドキュメント・フリークエンシー)という検索アルゴリズムが使われていた。
LSOを可能にするLEO(Live Engine Opitimaization)


 リコンメンデーション・システムそのものは、新しいものではない。大別すると「協調フィルタリング」と「クラスター・モデル」と「検索ベース方式」でできていた。






 第1には「コンテンツからコンテキストへ」という技術変化がおこるだろうと思っている。いまのところ検索技術は、あくまでコンテンツのキーワードに依存したままにある。これをコンテキスト(文脈)の検索や編集にグレードアップさせるべきである。ユーザーは欲望が満たされることがわかったのちは、意志を文脈あるいは物語として表明したくなるものなのである。
 第2に、評価システムにもっと独自のしくみを入れたほうがいい。これまでの評価は大半がリコメンデーションだった。そこには「評価する人の顔」も、またそのリコメンデーションにまつわる「物語」というものも、なかった。これは数値化に頼ってシステムをつくってきたからで、むろんそれはそれで重要なのだが、そこに「顔」や「物語」を入れるべきなのだ。それにはおそらく、「顔」(人)を評価し、その“相場”が上がっていく実社会における考課システムのようなものが必要になるだろう。
 第3には、ウェブ2.5やウェブ3.0というものがあるのなら、そこにはきっと画期的な学習システムが入ってくるだろうということだ。この学習には「知識の学習」「欲望の学習」とともに、「方法の学習」が必要である。じっくり学びたい、深く学びたいという機会はこのままではしだいに失われていくだろうからだ。さらにいうのなら、そのためには今日のアルファ・ブロガーに代わるような“ウェブ師範代”が必要なのである。

 第4に、これはすでに「インターネット・マガジン」編集長で、インプレスR&Dを代表する井芹昌信さんが予告しているのだが、「祭」のようなものが導入されるか、創発されることになるだろう。
 ぼくも「連塾」第II期を「絆走祭」(はんそうさい)と名付けてみたのだが、ウェブにおいてもポップで知的な天神地祇たちを招く「祭」が必要になっているにちがいない。つまり一年のどこかの一定期間にやってくる“行事”がほしい。ウェブのポータルサイトやウェブサイトというもの、あっというまに飽きられる宿命にある。
 これを活性化させるには、ひとつはグーグル化やアマゾン化をおこすことだが、おそらくこれは当分何をやってもグーグル・アマゾンに持っていかれるだけだろう(勝てないだろう)。そうだとすれば、独自の祭をネットワーク各地とリアル各地におこすべきなのだ。そして「胸騒ぎ」をつくるべきなのだ。いまは、それがない。とっくの昔、西行がこう歌っていた。「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」。
 第5に、ウェブ独自の「時間」や「消耗」を函数として発生させるといいだろう。現在、ウェブ・ネットワークのすべてには「摩滅しない時間」と「無制限に広がる空間」が、衛生無害に入っている。

しかし、こんなことはどこかで気持ちが悪くなるものだ。時間が速く進んだり、賞味期限をもっている電子貨幣が出回ったっていいはずなのである。貨幣というもの、もともとが記録性と代価性と時間性によって生じてきたものなのだ。生産の余剰と不足のズレが貨幣を生んだのだ。それならばウェブ2.0以降の社会では、“時計のついた価値”があらわれていいだろう。  また、ウィルス同様、ウェブで生じる面倒は何でも消毒してしまえばいいというものでもない。そもそも市場社会というものはソーシャル・コミュニケーションの一部のことをさしている。市場社会に人生が入っているわけじゃない。逆である。そうだとすれば、ウェブにはちょっとしたローカリティやマージナリティも必要なのだ。これを日本では「界隈」と呼んできた。「界」はウェブ社会に、「隈」はコモンズに当たっている。

そろそろ疲れてきました。この辺でお開きにします