第2回シニアメンバー懇親会

第2回シニアメンバー懇親会

2015年7月5日日曜日

意識が変われば見えてくる(マクドナルドを追って)

去年の7月下旬、中国の加工メーカー「上海福喜食品」が期限切れの鶏肉を使用していた事件が発覚してから、1年になる。
「マクドナルドが1000通りのメニューを用意しても復活できない3つの理由」という記事を見つけ、改めて、その後を振り返ってみた。(詳細はこちらから
見えて来るものは、慣れと過信と意識の解離、そして乖離へ。
我々がマクドナルドなどのファーストフードレストランに、求めていたものは何なのだろう。

2015年7月3日金曜日

核家族の拠点、超高齢化へ

ダイニングキッチンやステンレス流し台、水洗トイレといった革新的生活様式が導入されてきた団地が、今、急速に進む高齢化と単身世帯増加への対応を迫られている。」という。
「団地族」の快適生活を支えてきた環境が、高齢化に伴い、快適なものでなくなっているのだ。今、団地の快適生活に求められるのは、医療介護施設の充実である。
今回、SSBCシニアメンバー懇親会で取り上た『医療介護の開業から経営サポート』はこうしたニーズに応えるものだ。

2015年7月2日木曜日

早気は退治したい癖

昨日の日経新聞の『春秋』に、《弓道に「早気(はやけ)」という言葉がある。弓を引いて十分な間合いをとらず矢を放ってしまうことをいう。昔から退治したい癖だった。》とある。
「間」をつくることの重要性を教えてくれる。
〈まつ〉ということは、「〈〉を〈〉くる」ことであり、「間」に他力が〈はたらく〉ことを期待したのではないだろうか。そして道祖神に浄められた間は、「まつり」上げられたと考えてみる。

「間に合う」とは、今日では、主に、納期や集合時間などの、「決められた日時」に遅れないようにすることに使用するが、「役に立つ」、「足りる」という意味もある。「足りないものが満ちるのを待つ」ことを説いたと思える。

「拙速」より「巧遅」が望ましくはないか。

「間」とは、条件を現出するものなのである。「間」がないことは、無条件の行動を強いることになる。

よく使われる例として、「ハンドルの遊び」である。遊びが滑らかな操作を可能にする。いい加減が生まれるのである。
またゴルフやバッティングでは、「タメをつくる」ことによって、「間」が生まれ、効果的な「はたらき」が生まれ、飛距離が伸びるのである。

最適、素敵な対応をするには、間を置き、他力が〈はたらく〉「溜め」、余裕をつくり出すことが、行動を矯めることになる。

2015年6月30日火曜日

待つことが出来なくなった現代人

「シニアの見える化」が当面の課題と考えている。
『暴走老人!』を読んで、改めて時間を失っている感を強くした。
昔、『モモ』を読んで、「時間泥棒」という言葉が強く印象に残ったことを思い出した。
社会はますます、時間を搾取しているようだ。
「新」老人が暴走する理由を、「『時間』『空間』『感情』の秩序変化への不適応」であるとして、
「時間」「空間」「感情」の秩序がどのように変化しているかを解説する。
「待つことをめぐる考察」では、ニ十世紀を通じて我々は「待つこと」意識し、それを無駄な時間として排除する”帯グラフ人間”を創り出したという。

「待つことができない」ことは、「期する」ことはあっても、「期待する」ことはないということである。「熟成」ということがなくなる。
人として成長していく時間を失っていることになる。
「待つことができない」のは、老人だけではない、社会全体がそうなっている。
そして今、社会全体が「認知症」になっているように思える。
サービス経済化、「コンビニエンス」は、代替サービスの大量生産、大量消費のバリューチェーンをつくり出した。人は、生産(労働)者、あるいは消費者というサービス形態となって、バリューチェーンに貢献する。このバリューチェーンに生活者の居場所はないのである。