第2回シニアメンバー懇親会

第2回シニアメンバー懇親会

2020年2月3日月曜日

一枝通信

各位
お疲れ様です。
渡辺一枝さんの一枝通信転送します。
青木一由
iPadから送信
転送されたメッセージ:
差出人: Watanabe Ichie <ichiewatanabe@hotmail.com>
日時: 2020年1月26日 22:54:23 JST
宛先: Watanabe Ichie <ichiewatanabe@hotmail.com>
件名: 一枝通信 1月18日福島行②
◎上野敬幸さんを訪ねました。
 家の前の畑には緑色の小さな芽が幾筋も並んで出ていて、今年もまた菜の花迷路の仕込みが始まっているのでした。
土曜日で学校が休みだったので倖吏生ちゃんも家にいて、スウッと背が伸びて少女らしく成長したその姿に、過ぎた月日を思いました。
●聖火リレー
 聖火リレー走者に選ばれた上野さんに、どんな思いで走るのかをお聞きしました。
南相馬市内のコースは市役所から出発して野馬追祭場の雲雀が原までで、そこを何人かの走者でつなぐのですが1人が走るのは200mほどの区間だそうです。
その区間を2分ほどかけて走るそうですから、かなりゆっくりなペースです。
「スポンサー枠で入ったんですよ。復興五輪だというけれど、このコースでは被災前と景色が変わってるわけじゃないからね。宮城や岩手では沿岸部を走るようだから、それで海べりの景色は変わったのが判るかもしれないけどね。復興っていうのは、何なんだろうね。オリンピックで騙して欲しくないね」
●日は巡れども
 写真家の岩波友紀さんの写真集『One last hug 命を捜す』が出版され、328日に、写真集の刊行を記念してのイベントが催されます。
それが話題になった時、上野さんが言いました。
「もうじき3月が来ると、テレビや新聞はあれから9年なんて言い立てるでしょう。その日を騒ぎ立てるなんてバカみたいだ。その日だけ、思い出したみたいに慰霊祭なんてバカみたいだ。僕はそんなのには出ない。僕のところにも取材したいなんて言って来るのがいるけれど、絶対に出ないです。断ってます。もっと他の捉え方をしろって言ってやるんですよ」
 岩波さんの写真集は、311で我が子を失った3人の父親、大川小学校で津波にあって行方不明になった琴くん(2年生)を捜す永沼勝さん、自宅にいて流された倖太郎くん(3歳)を捜す上野敬幸さん、3年前に遺骨の一部が見つかった次女の汐凪ちゃん(学1年生)を捜す木村紀夫さんたちの、あの日からの終わらない日々を追った写真集です。
時の経過と共に捜せる場所も少なくなって、見つけられる可能性も絶望的になりながらも命の痕跡を捜し続ける……。
岩波さんの写真は、命とは何か、生きるとは何かを問いかけてきます。
静かに、深く考えさせてくれる写真集です。
 3月のイベントでは岩波さんの講演、上野さんと木村さんのトークがあり、またこのお二人を撮った映画『Life 生きてゆく』の監督、笠井千晶さんと私の対談も予定されています。
岩波さんや笠井さんの真摯な姿勢と違って、安易な取材をしようとするメディアを拒む上野さんには、あの日が今も切れ目なく続いているのです。
 上野さんには「では3月に東京で」と言って、倖吏生ちゃんには「また会おうね」とハイタッチをしておいとましました。

◎元気になって欲しい
 17日に津島訴訟の傍聴を済ませた後で、翌18日に南相馬へ行くことにしていたのは、高橋宮子さんと小林吉久さんに会いたかったからです。
2011年8月から南相馬に通うようになって私は、集英社のPR誌「青春と読書」と信州発の産直泥つきマガジン「たぁくらたぁ」に、現地被災者の話を連載してきました。それらがこの3月に、新読書社から1冊になって出版されることになったのです。
以前に書いたことで不確かな点を、宮ちゃんと小林さんに確かめておきたかったからですが、もちろん大留さんも訪ねるつもりでいました。
そして大留さんの様子によって無理がないようなら、宮ちゃんの家には大留さんも誘って一緒に行くつもりでした。
●大留さん
 上野さんの家を出てから、ビジネスホテル六角に向かいました。
大留さんは先月よりも幾分か表情がよくなっていて、どうやら体の痛みが少し和らいでいるような顔つきでした。
でもそれも痛み止めの薬が効いているからのようで、だから以前のように痛くて眠れないということもなく、昼間もすることがないので寝てばかりいるというのです。
体を動かさなければダメだと言うと、「そうだなぁ。体を動かさなきゃダメだな」と答えが返るのですが、「寒いからねぇ。外へ出たくないんだよね」がその後に続くのです。
「外へ行かなくても良いから、家の中で良いから自分の部屋にばかりいないでこの部屋に來たり、階段登ったり降りたりするだけでも良いのだから」と言うと、「そうだねぇ」と答えつつも、どうも積極的にやりそうもない様子でした。
 天野ハルさんが、娘さんの家を出て老人ホームに行ったことを伝えると、「そうかぁ。なんでダメだったんだろうなぁ」と、ショックを受けたようでした。
ハルさんが仮設住宅を退去してからの大留さんは、その頃から自身の体調も芳しくなくなっていて、友人や知人を訪ねることもほとんどしなくなりました。
それでも家の周囲を散歩したりしていたのですが、膝に水が溜まって痛むようになって歩くのも止めました。
 かかりつけの医院で膝の治療をしたのですがその後も芳しくなく、体調が良くないと気持ちも上がらず元気がない日々なのです。
それでも先月よりも元気そうに見えたのに、ハルさんのことを知って元気をなくしてしまったのでは困ります。
同じ市内にいれば訪ねあう機会もあり、ハルさんが六角に訪ねて来てくれたこともあったのですから気落ちするのは仕方ないですが、大留さんには元気でいて欲しいのです。
「大留さん、私はこれから宮ちゃんの家に行くのだけれど一緒に行きましょう」と誘いました。
●高橋宮子さん
 宮ちゃんは、大留さんが元市長の桜井さんや希望の牧場の吉沢さんらと産業廃棄物処理場建設反対運動を起こした時からの仲間だった人です。
元来が朗らかな性格で明るい女性ですが、萱浜の自宅を津波で流され、娘と孫を亡くし一時は心身ともにすっかり参っていたのです。
でも宮ちゃんは、仮設住宅に入居して半年ほど経った頃から「笑ってなけりゃぁ死んじまう」と、自分を奮い立たせ、また仮設住宅の仲間たちを元気づけたいと、手作りのゲームや即興の芝居を作って仲間を誘い、それらを披露してきたのです。
 宮ちゃんはその後仮設住宅を退去して災害復興住宅に入居し、宮ちゃんを慕って友人たちがその家にはよく集まってくるのです。
宮ちゃんもまた、「紅葉の会」などのように四季折々に仲間が集まれるような会を催して、みんなを楽しませ自分も楽しんでいます。
手作りの羽子板やお手玉、メンコなど作っては市内の幼稚園に寄付したりもしています。
 大留さんとも気が合って、二人で話しているとまるで掛け合い漫才みたいで、いつもお腹の皮がよじれるほど笑って過ぎてきたのです。
笑うことを忘れてしまったような大留さんに笑って欲しくて、宮ちゃんの家に誘いたかったのです。
宮ちゃんの家に一緒に行こうと誘っても、始めは「いや、行かない」と言っていた大留さんですが何度か誘ううちに「行こうか」と言って重い腰をあげました。
●宮ちゃんの家で
 私自身、宮ちゃんの家を訪ねるのは去年の6月以来でした。
宮ちゃんの家に行ったら、まぁ、庭は畑になっていて大根が立派に育っていました。
久しぶりの挨拶をしてすぐに宮ちゃんは、「社長さん(宮ちゃんは大留さんを、こう呼びます)どうしちゃったの?なんでそんな弱っちくなっちゃったの?元気ないヨォ。ダメだよ、そんなんじゃぁ」と、心配そうな顔で大留さんに言い、大留さんは苦笑いしながら、「ご飯食べてないから元気でないの」と言い、すると宮ちゃんは「ママかせてやっか(ご飯食べさせてやろうか)?」と言うのですが、どうもやっぱり、掛け合い漫才のようにはいかないのでした。
 宮ちゃんに「畑をやるようになったのね。大根が立派に育ってるね」というと、宮ちゃんは言いました。
「大根はね、芽がでる時パチッて音すんだよ。そんなこと言ってもみんな信じないんだけんど、この人(と自分を指差して)がちゃんと聞いてんだよ。種まいて寝てたべ。そんである時な枕元でパチッて音したんだ、朝起きてみたら、芽ぇ出てたんだよ。芽ぇ出っとき、パチッていうのさ」
 宮ちゃんから聞いて驚いたのですが、去年のお正月に脳梗塞を起こして二月ほど入院していたというのです。
ああ、そういえば去年の冬は何度電話しても不通だった時があったけれど、でもその後6月にあった時には、そんなこと話題に上らなかったからちっとも知らずにいました。
去年のお正月に娘や孫たちがこの家に集まって食べたりお喋りしたり楽しく過ごしていた時に、娘さんが宮ちゃんの様子がおかしいことに気づいたのだそうです。
ヨダレを出してろれつが回らなくなっているのに気づいて、救急車を呼んだそうです。
すぐに搬送されて入院し手術で、発見が早く手当ても早かったので奇跡のように何事もなかったかのように回復できたといいます。
 本当に幸いなことでした。
宮ちゃんのことですから、きっと術後のリハビリもしっかり励んだのでしょう。
なんの後遺症もなく、こうして元気に過ごしているのでした。
 帰りしな、宮ちゃんは何度も何度も「社長さん、そんなんじゃダメだよ。元気出さなきゃダメだよ」と、大留さんに言い大留さんも「判った」と言うのでした。

◎篤農家の小林さん
 宮ちゃんの家を出て鹿島区の小林さんの家に向かいました。
大留さんが疲れないか気がかりで、「疲れてないですか?」と聞いても答が返らず「疲れていたら先に家まで送りますよ」と言っても返事はなく、「大丈夫ですか?行けますか?」との問いかけにも声がない大留さんです。
でも今野さんに、「返事がないのは行きたいのですよ」と言われて、私もようやく、ああそうなのだと気づきました。
 小林さんは大留さんの様子を案じて先月訪ねたそうで、「この間より調子が良さそうだね」と言いました。
そして「大留さん何年生まれ?」と聞き「14(昭和)年」と答えを聞いて「ああ、私が13年だから同じようなもんだね」と言いました。
小林さんの優しさを思いました。
 小林さんには、六角支援隊が畑をやる時には畑の土地やビニールハウスを建てる土地を貸してもらい、試験田をやる時には田んぼを貸してくれる人を紹介してもらったりと、とてもお世話になったのです。
試験田の時の経緯で私の不確かな記憶を小林さんにお聞きして、教えていただけました。
すると今度は小林さんから、私が尋ねられました。
 小林さんの住む鹿島区は原発から30キロ圏外ですが賠償は30ロ圏内までだそうで、鹿島区の人たちが裁判を起こそうとしているそうなのです。
小林さんも原告になって陳述書を書いたのに弁護士から何も連絡がないのだが、とそのことについて聞かれました。
原告の皆さんが陳述書を書いて弁護士に託されたのなら、弁護士がそれらをまとめて提訴して受理されて裁判期日が決まれば原告団長に連絡があるのではないでしょうかと私は答え、でも裁判のことなら私よりも今野さんが詳しいからと、今野さんが小林さんにいろいろ説明しました。
大留さんがもっと元気なら、産廃反対運動で裁判を闘ってきた大留さんも、きっと話したいことはたくさんあっただろうと思いました。
 大留さんも疲れてきたようなので小林さんのお宅を失礼して、ビジネスホテル六角まで大留さんを送りました。

 今回もまた、すっかり今野さんにお世話になった福島行でした。
前述しましたが、16日・17日の津島訴訟の報告は後日にいたします。
23日には子ども脱被ばく裁判も傍聴したので、その報告もまた後日に。  いちえ

改めて、私宛の一枝通信(昨年、イベントに参加して登録)を紐解き、一覧にしてみよう!

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