第2回シニアメンバー懇親会

第2回シニアメンバー懇親会

2020年1月9日木曜日

イギリス社会はいま!

イギリス社会は「経済資本」「文化資本」「社会関係資本」により「7つの階級」に分かれていて、最下層を蔑視 .(参照元:ダイヤモンドオンライン)
『7つの階級 英国階級調査報告』(東洋経済新報社)は、社会学者マイク・サヴィジらがBBC(英国放送協会)の協力を得て実施した階級についての大規模調査Great British Class Survey :GBCS)の結果をまとめたものだ。原題は“Social Class in the 21st Century(21世紀の社会階級)”。
 本書の主張を簡明に述べるなら、イギリス社会は「経済資本」「文化資本」「社会関係資本」によって階級化されているということになる。私は『幸福の「資本論」』(ダイヤモンド社)で、幸福の土台(インフラストラクチャー)を「金融資本Financial Capital」「人的資本Human Capital」「社会資本Social Capital」で説明した。サヴィッジの「経済資本」は「金融資本」に、「社会関係資本」は「社会資本」に相当するが、「人的資本」の代わり「文化資本」が階級を決める重要な要素として取り上げられている。
 これはもちろんどちらが正しいということではないが、なぜこのようなちがいが生じるのか、よい機会なのですこし私見を述べてみたい。

「富の山が高くなれば、麓から頂上を目指すのが困難になる」

経済学でいう人的資本は労働市場における富の獲得能力であり、それは所得によって示される。イギリスでも所得の分布は二極化していて、「所得上位10%の収入は下位10%の約17倍であり、上位1%の所得が下位の約124倍である」というデータが示される。だがそれにもかかわらず、サヴィッジは「所得は主要な経済資本ですらない。富裕層では特にそうだ」と述べる。
 その根拠は、過去30年間の社会全体の富=経済資本の蓄積が莫大だからだ。貯蓄・住宅・家財・貴金属などの個人資産の総額は、1980年の2兆ポンド(約270兆円)から2005年にはインフレを考慮しても3倍の6兆ポンド(約810兆円)相当になった。対GDP比の総資産の割合も、同じ25年間で300%未満から500%超へと約2倍になっている。その結果、人口約6500万人のイギリスにはミリオネア(純資産で100万ドル超)が200万人もいるという。イギリスの世帯数は約2600万だから、ミリオネアを世帯主とするならば、およそ13世帯に1世帯が億万長者の家に暮らしていることになる。
 社会全体の経済資本=純資産を、サヴィッジは「富の山」と形容する。この数十年でイギリス社会の富の山は大きく成長し、その結果、上位1%の富裕層の1人あたり平均資産は1976年の70万ポンド(約9450万円)から、2005年にはインフレ調整後でも3倍の223万ポンド(約3億円)に膨れ上がった。それに比べて下位50%のひとびとの平均資産は5000ポンド(約68万円)から1万3000ポンド(約176万円)になったにすぎないという。
 まさに「1%vs99%」の構図に見えるが、ここには数字のマジックがある。ちょっと計算すればわかることだが、イギリスの上位1%の資産は1976年には下位50%の140倍で、それが30年後の2005年には172倍になった。上位1%の資産が30年間で3.2倍に増え、下位50%の資産は2.6倍に増えた、といっても同じだ。高齢化によって資産格差は広がるから、それを考慮すれば、この程度のちがいを「許しがたい不平等」と見なすかどうかは意見が分かれるだろう。
 資産3億円(上位1%)と資産176万円(下位50%)ではとてつもない格差に思えるが、これは絶対値を比較しているからだ。100円が倍になれば200円で、100万円が倍になれば200万円だ。富裕層と貧困層が「平等」に富を増やしても、絶対額の差は開いていく。社会全体がゆたかになれば、「グローバル資本主義の陰謀」などなくても(絶対額での)格差は自然に拡大していくのだ。
 本書で説得力があるのは、「富の山が高くなれば、麓から頂上を目指すのが困難になる」との主張だ。山頂までの距離がさほど遠くなければ、努力すれば自分でもたどりつけると思えるだろう。だが「富の山」がエベレストのようにそびえたっているのなら、ほとんどのひとは登山そのものをあきらめてしまうにちがいない。これが欧米や日本などのゆたかな先進国で「格差」が社会問題になるひとつの理由だろう。

人的資本を「経済資本」や「社会関係資本」のなかに“隠蔽”しているのではないか


 日本と同じくイギリスでも、富の形成に親からの援助の有無の重要性が増している。「欧米では子どもは成人すれば親とは別人格」とされてきたが、いまやイギリスの親の29%(およそ3人に1人)が別居している子どもに経済的援助しており、子育て(孫育て)で家計が苦しくなる45歳から54歳の子どもに限れば、親からの援助を受けている割合は45%(およそ2人に1人)にのぼるという。
 これは興味深い指摘だが、それを根拠に「人的資本=所得の格差を考慮する必要はなくなった」とするサヴィッジの主張には異論がある。
 単純な事実として、資産とは日々の所得から生活経費を差し引いた「純利益」を蓄積し、金融市場や不動産市場で運用した結果だ。大きな人的資本があれば純利益も増え、長期的には富は拡大していく。
 親からの援助についても話は同じだ。子どもに経済援助できるほどゆたかなのは、親が人的資本を使って資産形成に成功したからだろう。経済格差は、大きな人的資本を持つ富裕な親から、同じように大きな人的資本を持つ子どもへと資産が受け渡されることで拡大していく。そのように考えれば、親からの贈与は人的資本の重要さを示しているともいえる。

 サヴィッジは、フランスの経済学者トマ・ピケティ(『21世紀の資本』)の議論を受けて、「経済資本は(所得の差ではなく)、長期にわたる蓄積の結晶としてのみ理解できる」と述べる。だが、ピケティのいうように「資本から得られる収益率が経済成長率を上回っている」としても、それは「人的資本には意味がない」との主張を正当化できない。サヴィッジは、「結果(経済資本)だけを比較すれば原因(人的資本)はどうでもいい」と述べているように私には思える。
 リベラルな社会においては、人種、性別、国籍、身分、性的志向などで個人を評価することは禁じられる。従業員の評価・選別の基準として許容されるのは「学歴・資格・経験(実績)」だけで、これが人的資本を構成する。日本でも最近ようやく(一部で)理解されるようになったが、メリトクラシー(能力主義)は「差別のない社会」の前提なのだ。
 サヴィッジは、人的資本の主要な要素のひとつである学歴を「社会関係資本」に含め、「教育レベルが高いほど、エリートグループや専門職グループの知人がいる割合も大きくなる」「どの職業グループにも知人がいない「学歴なし」の人々は著しく孤立している」と述べている。私の理解では、これは大きな人的資本が金融資本を生み出すと同時に、社会資本(人的ネットワーク)もつくり出すからだ。

 本書では「大学間の格差――高等教育と能力主義」の章で、教育格差が社会階層に結びつく構図が分析される。イギリスではオックスフォード、ケンブリッジ、ロンドンの3つの大学とそのカレッジが「黄金の三角」と呼ばれ、その卒業生が社会の支配層を形成している。なぜ一流大学の卒業生が、政治家・官僚・企業幹部として社会的・経済的に成功しているのか。それは大学のブランドによって高い知能=大きな人的資本を保証されているからであり、同じように大きな人的資本を持つ友人・知人とネットワーク(人脈)をつくるからだろう。だがここでもサヴィッジは、結果(教育レベルが高いとエリートの人脈ができる)だけを論じて、その原因(エリートは大きな人的資本を持っている)を無視しているように思える。
 私がこのことにこだわるのは、幸福の「3つの資本」のなかでは、人的資本こそがもっとも重要だと考えるからだ。親の遺産で暮らしているがずっと失業している若者(大きな経済資本がある)と、大学を卒業したばかりで貯金はまったくないものの、グローバル企業に高給で採用された若者(大きな人的資本がある)で、「経済資本が重要なのだから前者の方が恵まれている」と考えるひとはいないだろう。だとしたらなぜ、こんな当たり前のことを考慮しないのか。
 私は、これは意図的なものではないかと疑っている。格差の議論に人的資本を持ち込むと、それは能力=知能の格差へとつながっていく。これはリベラルな社会では「政治的に正しくない(PCでない)」とされているため、人的資本を「経済資本」や「社会関係資本」のなかに“隠蔽”しているのではないだろうか。

イギリス社会は階級によって分断されている

「文化」が階級と結びついていると論じたのはフランスの社会学者ピエール・ブルデューで、上流階級は大きな文化資本Cultural Capitalを持っており、それによって社会的な権力・権利にアクセスできるとした。これがイギリスの階級分析に大きな影響を与えたのは、革命によって身分制が一掃されたフランスとは異なり、いまだに王族・貴族のいる古い社会構造が温存されているからだろう。
 サヴィッジはブルデューの議論を引き継いで、「高尚な文化資本」が階級の決定にいまも大きな影響を与えているとする。博物館に行ったりオペラを鑑賞したりするのが上流階級で、そうした「高尚なもの」になんの関心もなく、ソープオペラ(メロドラマ)やリアリティTVに夢中になっているのが下層階級というわけだ。
 これだけなら話はシンプルだが、それ以外に「新興の文化資本」があるとされる。オックスブリッジを卒業したエリートの若者たちも、いまでは正装でオペラを観に行ったりしない。その代わり彼ら/彼女たちは、アジアやアフリカ、中南米を旅したり、音楽フェスティバルに参加したり、現代アートやインディペンデント映画を楽しんだりする。
 イギリスの上流の若者たちの価値観はアメリカの若いエリートと同じで、おそらく日本の若者とも共通するだろう。「ポップ」や「クール」はグローバル化し、世界共通になっているのだ。
 欧米の上流社会では、アートとワイン(あとは西洋史と建築、クラシック)について語れることが「マウンティング」の手段になっている。だが「高尚な文化」が階級を形成するほど大きな影響力を持つのは、イギリスに特有の現象ではないだろうか。すくなくとも日本では、相手の文化資本(クラシックが好きか、ロックが好きか)を「階級」と結びつけるひとはほとんどいないだろう。
 よく知られているように、イギリス英語には「U」と「non-U」の区別がある。UはUpper Class(上流階級)の略で、王室やオックスブリッジで話される英語だ。それに対して「non-U」はコックニー(下町訛り)など、労働者階級が話す英語だとされる。
 日本にも方言があるがこれは「地方の言葉」で、上京した若者は(関西弁を例外として)みな標準語(東京弁)を話すようになる。なぜならその方が有利(便利)だからだ。それに対してイギリスでは、「階級(クラス)」によって異なる言葉が話されている。なぜイギリスの労働者階級は、上流階級の英語を話すようにならないのだろうか?
 これは、アメリカの黒人が独特の「黒人英語」を話すのと同じで、言葉がアイデンティティになっているからだろう。アメリカ社会が人種(白人/黒人)で分断されているように、イギリス社会は階級(上流・中流階級/労働者階級)によって分断されているのだ。
 このような社会だからこそ、イギリスでは「文化資本」によって自分がどの階級に属しているかを示すことが重要になる。「階級の概念そのものが、自我、人格に対して根本的な脅威を引き起こす」とされるイギリスが特異なのだ。
 日本で文化資本が階級と結びつかない理由は、「高尚な文化(ハイカルチャー)」が輸入品だということもあるかもしれない。「高尚な文化」とは、ルネサンス以降のヨーロッパで生まれたもののことだ。
 日本でもクラシックやオペラのコンサートに通うひとがいるが、それは「階級」を示す指標ではなく、たんに「西洋文化が好き」と思われるだけだ。かといって歌舞伎や能・狂言がハイカルチャーと見なされるわけではなく、アニメやマンガ、ゲームなどのサブカルチャーと等価に扱われている(これは日本のサブカルチャーが、「ジャパン・ポップカルチャー」として(欧米)世界で広く受け入れられたことの影響だろう)。このような国に住む私たちが、階級社会イギリスの「文化資本」を理解することは困難だ。
 断っておくと、私は「高尚な文化」を理解するイギリスの方が優れていると考えているわけではない。すべての文化が「サブカル化」して等価になった日本の方が、リベラル化・世俗化する世界のこれからの姿を示しているのではないだろうか。

「階級」があいまいになり大多数の中流層がアイデンティティに不安を感じている

『7つの階級』では、イギリス社会を「エリート」「確立した中流階級」「技術系中流階級」「新富裕労働者」「伝統的労働者階級」「新興サービス労働者」「プレカリアート」の7つに分けている。だがそのなかで階級(クラス)がはっきりしているのは最上層のエリートと最下層のプレカリアートだけで、残る5つの階級は流動的で、上下関係がはっきりしているわけでもないという。
 エリート(上級国民)は「富が富を生むひとたち」、プレカリアート(下級国民)は「社会的・経済的に排除されたひとたち」のことだ。彼らは「スカム(くず)」「チャヴ」などと呼ばれている。
 イギリスのメディアでは、「ポバティ(貧困)ポルノ」と呼ばれる記事や番組が大量につくられている。ポバティポルノとは「貧困層の一部の人々の素行がどれだけ悪いかを興味本位に暴きたてる」もので、日本の「ナマポ(生活保護受給者)批判」をより大規模に、えげつなくしたものと考えればいいだろう。
 そこで描かれるのは、イギリス社会には「奴隷のようにあくせく働く人」と「うまくサボる人」がいるという世界観だ。「収入の一部、あるいはすべてを福祉手当に頼っている人々は、自分の「ライフスタイルの選択」として給付に過度に依存しているとする理解が一般化し、福祉手当受給者がドラッグや酒に浸り、いつも楽しく過ごすという安楽な生活を送るために、納税者の必死で働いて納めた税金が使われていると多くの人が考えている」とサヴィジはいう。
 なぜこんなことになったのか。それは皮肉なことに、かつてあった明確な「階級」があいまいになったからだ。
 イギリスでは「階級」がひとびとにアイデンティティを与え、それによって社会を安定させてきた。上流階級はイギリスを支配していたが、労働者階級も自分たちの生き方や働き方に誇りを持ち、「人間」として上流階級と対等だと思っていたのだ。
 だが階級を形成していた文化的、社会的な壁が失われ、社会が流動化したことで、大多数の中流層がアイデンティティに不安を感じるようになった。こうして、最下層のプレカリアートを蔑視・排除することで「中流」のアイデンティティを取り戻そうとしたのだとサヴィジはいう。これは、黒人(有色人種)を差別・排除することで「白人」としてのアイデンティティを守ろうとするアメリカの「白人至上主義者」の心理と同じだろう。
 問題を複雑にするのは、階級を否定し「みんな普通のひとたち」とするリベラルな態度が、プレカリアートをさらに追い詰めていることだ。なぜなら、「「みんな同じで上も下もない」という、普通について広く受け入れられている考え方は、最も不運な人も含めて、すべての人が自分の立場に責任を持つべきであるという意味に及び始めた」からだ。
 スコットランドの貧困地区で生まれ育った(白人)ラッパーのダレン・マクガーヴェイは、貧困問題を取り上げるときに自分たちにとって気分のいい物語だけを求めるリベラルの態度を、アフリカの野生動物を観光するサファリに例えて「ポバティサファリ」と批判した(『ポバティー・サファリ イギリス最下層の怒り』集英社)。
 左派は「新経済体制の創出、エリートの打倒、公共支出の拡大」あるいは「西洋社会で互いに重なり合い結びついて存在するさまざまな構造的抑圧や、資本主義に内在する象徴的暴力」についてきわめて雄弁に語る。だがその一方で、徹底的に避けられる話題は「自己責任」だ。
 その結果、「個人の役割と責任という考えは右派が独占している」とマクガーヴェイは嘆く。「自分たちの選択に一定の責任があると認めることで、ようやく多くの人は心の問題、身体的な病気、依存症から回復できる」にもかかわらず。
『7つの階級』と合わせて読むと、イギリス社会で何が起きており、確実にやってくる日本の未来がどうなるのかが理解できるだろう。
橘 玲(たちばな あきら)

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